言語と身体
以前、夕方に坂口恭平さんの「鬱明け大感謝祭」に行ってきました。
坂口さんの歌と絵に囲まれた、居心地の良い空間。口からついて出てくる言葉が不思議で愉快で面白く、メロディと詩がこんこんと湧き出る泉のようでした。
夜は早稲田ドラマ館で宮沢章夫さんの演劇「14歳の国」。20年ほど前に書かれたこの作品。当時の事件を直接扱っているわけでもないし、コミカルな部分もあります。
それでも普通に見える中の暗さとか、どうしようもなさを感じる。
20年前に紡がれた言葉と、現代には繋がるところもありつつ、ぎこちない部分も感じました。
それはアフタートークで語られていた、言葉の浮遊する時代と、その身体性と関わってくると思います。
坂口恭平さんの言葉は少しprimitiveな感じ。そしてその言葉を聞いていて心地いいと感じる。坂口さんは身体に根を張った言葉を話しているから、惹かれるのかもしれない。
また演劇の話に戻ると、当時は暗さがあったのに比べて、今は暗さがなくなった時代なのかもしれない(もちろんなくなったわけではない)。感覚か麻痺して、暗さが暗くないと言うか。それは闇が染み込んだ深刻な世界なのか、もしくは新しい世代なのか。
言葉と身体性について考えなきゃいけないと考えてるのは、私の身体であり、わたしの言葉であるようです。