ブログを書く筆が重かった日
こんにちは。しんいちです。
最近は朝起きたらすぐにブログを書くようにしていました。
しかし、今日はパソコンに向かっても何も書くことが思いつかず、朝のうちに書くことが出来ませんでした。なので、今日のブログは夜に書いています。軽いスランプのようなものでしょうか。
今回は自分がかけない時に、どうして書けないのかを考えます。
自分が「書けない」という状態になった時に、どのように思考していたのか。
そして、何故そのような状態になってしまったのかを考察します。
・理由1:イチローさんのことを書きたかったけれど、自分が彼のことを書いていいもの迷った
・理由2:リトアニア観光地など、リトアニア関連の記事を書けば良いのだが、調べることに対して意欲がわかなかった
・理由3:きっと春だから
理由1:イチローさんのことを書きたかったけれど、自分が彼のことを書いていいもの迷った
これは結構ブログを書く上で障壁となる思考だなと感じます。
自分は詳しくないし、語る資格なんかないのではないか、と。野球をやったことがないし、今まで熱心に野球をみたこともない。そんな自分がイチローさんについて書いていいんだろうか、と。
ブログに書くという行為は他人に読まれることを前提としているわけですから、急に自分の考えを外に出すのが怖くなったというのもあります。
逆に言えば自意識過剰な考え方ですね。
「自分の顔を気にしているのは、自分だけ」
という言葉もありますように、そんなに誰も気にしていないはずなのに。
こう先の、未来のことを考えて、行動できなくなってしまうという状況は最近学んだ仏教思想のことを思い起こさせました。
先のことを頭で考えて、悶々としているのは心に囚われている状態、仏教用語で言い換えると「生死(しょうじ)」の状態です。生死はこり固まりやすいので、それは解いてあげなくてはいけないものです。生死を解いてあげないと、安楽の状態には至ることができません。いつまでも、頭の中でぐるぐる考えるままです。
時間の考え方も違います。
一般的には過去現在未来を一列の水平な時間軸として考えます。
しかし仏教では一瞬一瞬しかありません。
過去もなければ、未来もなく、今その瞬間に生成消滅を繰り返しているのです。
このことを一遍上人は次のように表現しています。
「念々臨終、念々往生」と。
この時の「念」は「刹那」を意味しています。
未来のことなど考えてもわからないのに、そこを憂えて行動できなくなってしまった。
勉強して知識はあっても実践するは難し、といったところでしょうか。
理由2:調べることに対して意欲がわかなかった
リトアニア観光地など、リトアニア関連の記事を書けば良いのですが、調べることに対して意欲がわきませんでした。
これは結構やっかいです。調べ物に対してモチベーションが上がらない。
リサーチするのは時間がかかります。ただ調べ物するのは嫌いではないので、なぜ今日に限ってそのような気持ちになったのでしょうか。
原因としては、他のことが頭を占めていたからだと思います。
どういうことか説明しましょう。
今日は朝寝坊をしました。
いつもは6時ごろにおきて、朝の習慣を終わらせてしまいます。
僕の毎朝の習慣は
・モーニングページ
・瞑想
の2つです。
モーニングページはいつか詳しく開設しようかと思うのですが、朝一番に思いつくことを書き連ねていくという、一種の脳のデトックス作業です。
これと10分から15分の瞑想を行います。
しかし、これができていない。
またここ数日家を空けていたため、部屋の掃除がしたい。
他にも、最近はプログラミングと編み物も始めたので、やることが多いのに時間がない、的な感じで焦っていました。
今は落ち着いたので、やれるとこからやっていこうと思います。
まとめると、心が焦っていたので、ゆっくりと調べ物をする気にならなかったのです。
「忙しい」という漢字が「心」を「亡くす」というのは宜なるかなという気持ちです。
理由3:きっと春だから
もう一個は春だからです。
まず昨日は春分でしたね。
春の暖かさ、桜の開く匂い、寒い冬を乗り越えてほわっとした気持ちになります。
頭が熱に浮かれているとでもいいましょうか。
春には少しタガが外れてしまう人が出るというくらいです。
「春だから今日はムリー」なんて理由もありだと思うのです。
皆さんの春はいかがですか・