『「いき」の構造』を読んで千夜千冊を読んで
何が面白いんだこの本?
九鬼周造『「いき」の構造』を読んだ直後の感想だ。
非常に直感的なことを長々と説明して、その上で直感的な「いき」を外してるような気さえした。
納得できないもやもやを抱えて、松岡正剛さんの「千夜千冊」を読んだ。
引用と自分の感想をそのまま載せることにする。
碁敵の別役実に勧められて読んだとき、つまらなかった。こんなことで「粋」が説明されてたまるもんかよと、すぐに思った。早稲田小劇場が生まれる前後のころである。
▶︎おもわず笑ってしまった。本当に同じように思っていたから、言葉にされてしまった感じで、おかしくなった。ついでにいうと、先日早稲田小劇場で「14歳の国」宮沢章夫さんを見てきたところだ。
日露戦争のさなか、九鬼は一高に入って天野貞祐・岩下壮一・和辻哲郎・谷崎潤一郎と知り合い、最初は植物学をめざしていたのだが、やがて哲学に向かい、東京帝大の哲学科に入る。
▶︎「いきの構造」の中で、谷崎の「陰翳礼讃」に出てきそうな、「行灯のくらさがちょうど良い」という記述があったがこういう繋がりがあったのか。
ヨーロッパで九鬼がしきりに考えたことは、「寂しさ」と「恋しさ」とは何かというものだった。「寂しさ」とは他者との同一性が得られないという感覚、「恋しさ」は対象の欠如によって生まれる根源的なものへの思慕である。これらはすなわち「異質性」への憧れを孕んでいる。つまりは清元なのである。
九鬼はそのような感覚が「何かを失って芽生えること」「そこに欠けているものがあること」によって卒然と成立することに思いいたり、ついに東洋的な「無」の大切を知る。
▶︎何が欠けているというんだ。私は。全部?
九鬼はこうして、人間という存在がすでに何かを失ってこの世界に生をうけているという「被投性」をもっていることに深い関心を寄せた。では、どうすれば生きられるのか。何かに出会う必要がある。出会ってどうするか。恋をする。どのように恋の相手に出会えるか。そして恋だけを持続できるのか。そんなことばかりを考えた。こんな思索がのちにやがて、ぼくが瞠目した「偶然性」の問題にとりくむあの九鬼周造になっていく背景になっている。
▶︎この一文、めっちゃ泣ける。なんでだろう。
日本の美が浮世の片隅において磨きに磨いた「いき」こそが、あるいはその「いき」の感覚を交わしうる相手との出会いこそが、美の堪能であって、無の堪能だったのである。
よくわかんねえ、納得いかねえ、って感情から、この人はすげえ人なのだ、という感情まで持っていってしまうから松岡さんはすごい。
とはいえ、私の直感的にはまだ『「いき」の構造』について納得できていない。松岡さんは20年を要したというのだから、僕はどれくらいかかるのか。30年?40年?もっとかも。
気長に待とう。