言葉の責任:そしてヨロコビについて
こんにちは。しんいちです。
この2日間、久しぶりに大学の友達と会いました。
その内の何人かが、ブログ読んでるよ、と言ってくれました。
いままで自分のブログはもやっとした不特定多数の人にむけて書いていました。というよりもむしろ、自分の感情をただそこにさらけ出すような記事の時もあります。
しかし、今回面と向かって「読者」というものに出会いました。
自分の言葉や考えが誰かに届いているという感覚がより明白になりました。
自分の言葉というものが、自分の文体を通って誰かに伝わるということに、少し怖気づきました。
例えば、自分の文章が意図したのとは違う形で伝わってしまうかもしれない。もしかしたら、自分が発した言葉が誰かを傷つけてしまうかもしれない。
そう思うと自分が発する言葉の責任を考えずにはいられません。
言葉の責任について、少し考えました。
ただ、誰かを傷つけない言葉、誤解されない言葉、そういう言葉を書こうと思っても結局は不可能なのだとゆう考えに至りました。
もちろん、相手を配慮するという考え方を前提としながらも、どこかで諦めるラインを決めておく。
昨日は卒業式だったので、コースの先生からはなむけの言葉がありました。
その中で「諦めなさい」という言葉がありました。諦めるという言葉は、一見すると、何かを途中で諦めるような悪いイメージがあるかもしれません。
しかし、ほんとうの意味を勉強したわけではありませんが、森鴎外が「諦念」といったように、また夏目漱石が「則天去私」といったように、一遍上人が「念念臨終、念念往生」といったように、本当はもっと広範なイメージを持った言葉です。
まだまだいろんなことが諦めきれないままではありますが、まずは精一杯自分の言葉と向き合っていくことをやっていきたいと思っています。
そして、立ち現れた質感のある読者にどのように言葉を届けていけるかどうか。
改めて気の引き締まる数日間でした。