「サヨナラだけが人生だ」
こんにちは。しんいちです。
ここ数日は大学の卒業関連で会うのが最後になる人がたくさんいました。
また、仲のいい友人も、もう大学に行っても会えません。
授業に行けば、大学に誰か気のしれた友だちがいる。
そのような関係は終わりを告げてしまいました。
最後の別れを惜しむ気持ちはあるものの、僕はなんとなく気楽な気持ちもありました。
人生の中でまた会えるだろう、と。
地球上のどこかで生きていてくれれば、いつでも会えるという気持ちです。
不思議とそのような確信があるのです。
もしくは人生に別れと出会いがあるということはどうしても避けられないのだという、その事実を受け入れている面がります。
これは大学の先生が、卒業生に向けてのはなむけの言葉として送った言葉ですが、
「サヨナラダケガ人生ダ」という井伏鱒二さんの言葉が有名です。
道元がまさに今を生きて、一遍上人が一瞬一瞬に死んで、そして生まれると言いました。
仏教思想の持つ無常観というのは、本質的なものです。
中学生の時に読んでいたけどまったくわからなかった哲学や文学は、23歳になった今、より身近に、浸透しつつあります。
「わかれ」とか人生の節目のような、そういうものを考える時に哲学はより身近にやってきます。
話は変わりますが、人との別れは縁でつながっていると思いますが、「物」との別れはどうでしょうか。
就活した友人はみんな研修や移動で、今まで住んでいた場所から離れることを余儀なくされています。
そういうときに、今まで持っていたものを手放すことになります。
普通に考えれば、どれもこれも思い出深く大切だな、という気もしますが、
物がなくなることでより快適になるということもあります。
例えば、私事ですが、最近引っ越しをしまして、その時に大部分の本を置いていったのです。そうすると、今まで滞っていたものが流れ出すようなスッキリとした感覚がありました。
また、これはヨーロッパをバックパッカーしていたときにも感じていたのですが、物が少ないほうが圧倒的に移動できます。
その身軽さを持っていることは多動の時代に非常に重要なことです。
技術が進歩して、地球の反対側まで1日以内で移動できるようになってきました。
だから、いま、一時的に離れ離れになったとしても大丈夫です。
荷物少なく、身軽であればどこにでもさっといけます。
1日あればあなたに会えます。
だから心配しないでください。
世界で生きている限り、どこかでいつでも会えるでしょう。